「コップンカップ(ありがとう)」
ホテルまで送ってくれた、取引先の担当者にお礼を言って別れる。
ここは、タイのホア・ヒン。バンコクから200km程南に下った海岸に面するリゾート地である。
午後に仕事を終えた私は、担当者と別れた後、フロントにてチェックインを済ました。初めてこのホテルに来たときは、いかにもリゾートホテルの作りに感動したものであったが、今となってはその感動もどこかに消されてしまったようだ。もうここも何度目であろう。前に来たときは、かなりフロントから遠い部屋に泊まらされたが今回はどうであろうか、なんて考えている内に部屋の前につく。ボーイに案内された部屋はこじんまりとした木造の部屋で、ニスを塗り直したばかりなのであろうか、シンナーのような臭気に満ちている。
ボーイは気づいて部屋を変えてくれるであろうか。そんな期待を持っていたが、ボーイはいつもの仕事をやり遂げ、チップを受け取った後部屋を出た。今さらフロントに文句を言って部屋を変えてもらうのも面倒だ。なに、どうせ1日の宿泊だ、臭いにもなれるだろう。
時計を見てみると、既に2時を回っている。仕事の道具しか入っていないはずのカバンから、折りたたみの網と、三角紙入れを取り出す。「出張するときは、肌身離さず持つこと」、虫屋の先輩からの教えだ。
レンタカーのデスクへと急ぐ。日没まで時間がない。
デスクにつくと、見慣れたスタッフが。(覚えてくれているかな?)昨年来たときも同じお願いをしたのだが・・・
「2,3時間車をドライバー付きでお願いしたいんだけれども、すぐに手配できる?」
「ええ、どちらまでですか?」
「とりあえずこの周辺をうろうろとしたいんだけれども」
前の時と同じ会話が始まる。蝶を採りにいく、という事を分かってもらうのにしばらくかかった事を思い出す。
また、説明しろってことか。
「ああ、あなたは・・・」
「そうそう!」思い出してくれたか。珍客であろうから覚えやすいだろう。こうなると話が早い。
「10分待ってくださいね」
「オーケー」少しホテルの庭を散歩をしてみることにした。
昨年ここに来たのは11月上旬。どこを見ても辺りは蝶だらけであった。こういうのは、私のような虫屋(または、蝶屋)にとっては拷問状態であった。つまり、蝶はいくらでもいるのに、仕事があるために指をくわえて見ることしかできないのだ。昨年も耐えきれなくなった私は、仕事が早く終わったのをきっかけに、レンタカーを使って蝶の採集に行った。観光スポットに客を連れて行き、帰ってくる通常の業務とは違う私の説明を、レンタカー担当者に分かってもらうには10分はかかった。フロントの人たちも「なんだなんだ」と出てきて大事になってしまった。
だが、最後的にはこちらの意図が通じ、出発前には指で鱗粉がはげてしまったマネシジャノメまで捕まえてきてくれた。
前回の時はドライバーが良いところを知っているというので、任せきりにした。彼は素人とは思えないほど蝶のいそうな場所へ連れていってくれた。それなりに成果もあり自分としては、満足できた採集だったと思う。今回は、自分の狙ったある滝へ行くことを決心していた。実は前回もその滝に行こうとしたのだが、ドライバーの誘惑に負けてしまった。今回は目的地に着くまで、ぐっと我慢しよう。
フロントに戻ると、デスクの担当者が20代くらいの若い運転手と話している。どうやら、どういう客なのか説明してくれているらしい。
「ハロー」彼が、茶色い肌に真っ白な歯で挨拶をしてくる。
シルバーのトヨタのセダンに乗り込み、「滝まで行こう」と指示をする。時間は既に2時半だ。日没は6時くらいであろうから、暗くなり始める5時には蝶達が姿を消すであろう。滝まで1時間。到着は3時半頃か。すると採集が出来る時間はおそらく1時間くらいであろう。
外の景色が町からパインアップル畑へと変わってくる。更に進んでいくと、いかにも蝶がいそうな林や野原が出てくる。そこでは、シロチョウ類がちらほらと飛び交っている。前回はここで誘惑に負けて止まってしまったのだ。
ドライバーがバックミラー越しにこちらをちらちらと見ている。いつ止まれと言われるか注意をしているのか。それとも単に日本人が珍しいのか。とにかく今回は滝にたどり着くまでは止まらないと決心したのだ。誘惑に負けないように目をつぶる。
目をつぶると、人は色々と考え事をするものだ。どこかの滝みたいに公園のように整備されていたらどうしよう。芝生だらけの公園は、自然いっぱいで綺麗に見えるが、人工の公園だけに蝶も少ない。日の光も弱くなってきており、蝶達がいるかどうか不安だ。ボウズ(全く採れないこと)かもしれないとつい悲観的になってしまう。
ここで、車は山を登り始めた。これはうれしい。山は蝶の宝庫だ。どんどん登れ。期待して車の外を見るが、蝶がいない。行けども行けども飛んでいる姿が見えない。やはり前回の場所が正解であったのであろうか。でもまぁ、ここまで来たらもう後戻りは出来ない。例えボウズであっても、滝でも見物して帰ることとしよう。
ところで、私が滝にこだわるのは、人からそこに蝶が沢山いるからと聞いていたからではない。ただ、今までの経験からして、蝶は水が沢山あるところに多いのだ。特に滝であれば、周りの植物も多いであろうし、蝶の食草も多く期待できると思った。昨年も同じ考えだった。行けなかっただけに、今回は確認しておきたかったのだ。
そして、車は滝に着いた。滝は自分が想像していたものより遙かに小さく、人によっては滝扱いしてくれないであろう。落差1~2メートルくらいを20メートルくらいかけて、一応水しぶきをあげながら流れている。時計を見ると、3時半であった。予定通りだ。
黒い蝶が道ばたでふわふわと飛んでいる。アゲハチョウか?一瞬焦る。折りたたみ網を取り出し、三角紙入れをベルトにつける。久しぶりの採集に顔から思わず笑みが漏れる。
近くによると、それはツマムラサキマダラであることに気が付いた。前翅の瑠璃色がまぶしく輝いている。目的もなくふわふわと飛んでいて、ふと見ると、周りには既に10頭ほどが集まってきていた。まずは採集しよう。ドライバーがこちらを見ている。はずかしい。照れが入ると、うまく採れない。力の入らない私のスイングから蝶達は簡単に逃げてしまう。網をドシロウトのごとく振り回した後、やっと一頭を捕まえる。
初めてのツマムラサキマダラである。すごくうれしい。一生懸命、腹部の先から黄色いヘアペンシルを出している。臭いを嗅いでみるが特に臭くない。単なる脅しであろうか。ドライバーが見に来たので、閉じていた羽を広げてみせる。黒い羽が開いた途端に瑠璃色の光を放つ。
「オー、ビューティフル!」
彼は素直に感心して見ていた。採集した蝶をすぐに殺してしまうことを、彼は抵抗なく見ていた。三角紙に包んでいると、彼が網を持って蝶を追った。手伝っているつもりだろうが、彼の周りを蝶はふわふわと飛び回り、結局彼はネットインすることは出来なかった。バトンタッチ。

道の脇には水が流れていた。ここを見ていこうと思い、歩いていくと早速シジミチョウ達の吸水に出会った。そっと見てみると、それはウラナミシジミの仲間のようだ。5~6頭集まって、地面から何かを吸水している。そしてその先に、見たことのない白いシジミチョウがいた。網の底を持って、そっとかぶせる。驚いた蝶は上へ上へと飛ぶので、どんどん網の底の方へと入っていく。しっぽもあり、非常にかわいらしい蝶だ。
次に中くらいの白い蝶が飛んでいるのが見える。追いかけてみると、それはイシガケチョウの一種であった。日本のイシガケチョウのように時々葉っぱの裏に羽を広げてとまったりしている。見たことのない種類だが、羽が大分痛んでいる。いくら自分が採ったことのない種類とはいえ、ぼろぼろになった蝶は自分としてはあまり欲しくない。これが10年前の自分であったら、迷わず三角紙に入れていたであろう。
そして、又その先に白い紋がある小型の焦げ茶の蝶を見つける。止まったところを見ると、テングチョウの一種だ。羽が若干痛んでいるがこれは欲しい。テングチョウについては、興味のあるグループだからだ。木の枝に止まったところを掬う。ドライバーを呼んでみせる。
「ほら、鼻が長いんだよ、この蝶は」
「オー」
道の片側は崖になっており、崖の一部に先ほどのツマムラサキマダラと、コモンアサギマダラの仲間が集まり始めた。何かが染み出ているのであろう。そこでドライバーが一頭のコモンアサギマダラを採ってきてくれた。羽も破れており、指紋だらけだ。しかし、彼の好意はありがたく受けなければ。
「オー、サンキューベリーマッチ」
三角紙に入れる。こういう蝶は思い出の蝶となり、見た目よりずっと価値がある。
滝の方へ行こうと彼が言うので、ここはとりあえずまた後で戻ろうと言うことで、滝に向かって歩く。駐車場でツマムラサキマダラの様な蝶が地面にとまっている。しきりに羽をばたつかせていて、何かをにたかっているようだ。
なかなか大きいサイズ。しかし、ツマムラサキマダラとは何かが違う。1回目の羽ばたきでは、リュウキュウムラサキかと思った。しかし2回目に私はそれがルリモンワモンチョウであることを確認した。瑠璃色の紋が明るく美しい。近づいてきた私に気づき、ルリモンワモンチョウが飛び立つ。ふわふわと柔らかい飛び方で、私は難なくネットインすることが出来た。
この蝶は、私がかねて採集してみたかった蝶の一つだ。羽が少し破れてしまっているが、非常に綺麗だ。羽を広げてみると、瑠璃色の紋と、それを取りまく紫色の幻光が輝く。
「オー、ベリービューティフル!!」
ドライバーも感動したらしい。東洋のモルフォといわれるだけはある。私はまるでモルフォチョウを採った気分であった。しかし、以前のように珍しい蝶を採った時、心臓がばくばくし、手が震えることもなくなった。大分慣れてしまったことが少し寂しい。
もっといないであろうか。辺りを見回すが、もういないらしい。しばらくここでねばろうと思っていると、滝の方に見慣れた蝶が。
久しぶりのダッシュ。キシタアゲハだ。黄色い後翅が目立ち、まるで後翅だけを羽ばたいているように見える。
食草を探していたのであろうか、ぱたぱたと植物の上を飛んでいるところをネットイン。ワシントン条約指定種だ。
網から取り出し、駆け寄ってきたドライバーに見せる。メスで羽がぼろぼろ。よく考えれば初めて採集したキシタアゲハだ。しかしこいつは日本に持ち帰れない。後でリリースとなるであろう。が、とりあえず生きたまま三角紙へ。
滝のそばには、薄暗い木の陰の中に壁のない小屋みたいなものがあった。床はコンクリート製で、湿気のせいで苔だらけになっている。そしてその上に黒い影がぽつぽつと。50頭くらいいるであろうか。そっと近寄ると、それはマダラチョウの仲間がしきりに吸水しているものと分かった。沢山いるが、あまり新鮮な個体はいないようだ。一番大きく、綺麗な奴を狙い、網をそっと上からかぶせる。なかなか綺麗な奴だ。


こうして私は、採集を終え、ホテルへ帰ることとした。夕暮れまで待てば、更にワモンチョウが姿を現したかもしれないが、あまり気合いが入らなかった。とりあえず、自分が想像をもしなかった、ルリモンワモンチョウを採ることが出来たので、満足したからかもしれない。
ホテルに戻った私を迎えてくれたのは、レンタカーの担当者。
「スリーアワーズ」
彼女がにこにこしながら3本の指を立てる。
「お部屋につけときますか?」
ホテルで私は、レストランで一人乾杯をした。3時間の採集にしては充実していた。こういうときは、酒がうまい。
食事を終えた私は、ヤモリ付きの電灯の下を通り部屋に戻り、就寝した。